국내에만 알려진 축구팀인지....
정작 중국에서는 알길이 없는 팀이넹..대만.홍콩 포함..
球壇名宿張子岱 偷紅酒罰2000
【明報專訊】1960年代效力過英格蘭甲組球隊黑池、現年69歲球壇名宿張子岱,上月在東薈城一間超市偷去4支紅酒和3樽果仁,總值928.5元,他昨日在荃灣裁判法院認罪,被判罰款2000元。他在庭上表示,因為一時貪念犯案,事後已感後悔。
人贓並獲 認罪一時貪念
控方案情指出,今年3月26日,張子岱在東涌商場東薈城一間超市,偷去紅酒和果仁,但在收銀處只付了汽水的價錢,離開時被截停人贓並獲。他在庭上承認控罪,表示自己當時一時貪念犯案,目前已感到十分後悔,最後被罰款2000元。
外號「阿香」的張子岱,年僅15歲就加入當時的球會星島踢預備組,1959年獲甲組勁旅東華賞識力邀加盟,同隊隊友有「香港之寶」之稱的姚卓然。1960年,張獲當時《英文虎報》球評家引薦,加盟英國甲組球會黑池,更於1961年第二次為黑池上陣時,射破英格蘭國腳門將朗.史賓格的龍門,成為唯一在英格蘭頂級聯賽取得入球的香港球員。至62年10月,張跟黑池解約後返回香港發展。
60年效力過英甲黑池
主打中場的張子岱曾力過傑志、愉園、星島等球隊。1978年,時年37歲的張子岱結束球員生涯退役,先在愉園擔任助教,後轉投長和擔任球員兼教練。
來自足球世家的張子岱,其父親是上海足球名將、綽號「拚命三郎」的張金海,張家有4子,除了三弟,其餘3兄弟都曾是甲組球員,長兄張子文曾效力光華和警察,幼弟張子慧則效力過溫哥華皇家、消防、精工等球隊。張子岱的兒子為形象設計師兼藝人張學潤。
鄭光植 日本植民地朝鮮における民族派スポーツ統括団体「朝鮮体育会」に関する研究 体育史研 究 第25号 13頁 2008。しかし,初代の会長の張斗鉉,理事長の高元勲,理事の李升雨,鄭大鉉, 評議員の金性洙,申羽均,金東轍などは,民族問題研究所編『親日人名辞典』1~3巻( ㈱ミンヨ ン 2009)に含まれている。同事典によれば,以下の二名は朝鮮体育会設立時において親日的であっ たことが窺える。一人は, 高元勳 (コ・ウォンフン)である。彼は,中枢院参議・道知事・国民総力朝鮮連盟理事などの活動から親日派とされている。併合前は日本留学し明治大学法科を卒業,帰 国後普成専門学校講師になった。併合後,1911年8月に総督府警務総監部警部として庶務課文書係 として勤めた。 1913年4月再び普成専門学校教授になっており,総督府の警部をしながら教師とし て勤めていたことになる。 1915年11月大正天皇即位記念大礼記念章を受けており,式典に参加した か行事に関係したことになる。 1916年2月警察を辞めて以後,普成法律商業学校学監,徽文高等普 通学校講師嘱託,普成法律商業学校校長というのが,朝鮮体育会理事長就任前の経歴である。 이 ように併合前は明確ではないが,併合後は親日的であったことが窺える。その後,総督府の政策に 深く関与している。 1924年に朝鮮総督の諮問機構の奏任官待遇の中枢院参議に任命されて以後,全 羅北道知事,京城府志願兵後援会理事,国民精神総動員朝鮮連盟理事,国民総力朝鮮連盟理事など 積極的に親日活動を展開した。もう一人は, 申羽均 (シン・ウキュン)である。彼については,併合前から軍人で日本軍への功労で日本政府から勲4等瑞宝章を受けている。合併後も変わらず,反 日運動に対抗するために日鮮融和を掲げて結成された同民会が創立される時,評議員を引き受けて, 死亡するまで活動した。 一方,朝鮮体育会設立時は親日的ではなかったと見られる者が三名いるが,これらの人物も20年 代から30年代以降に親日的活動を行っていたとされている。まず, 張斗鉉 (チャン・トゥヒョン) は,同民会評議員,時中会評議員として親日派とされている。これらは1924年以降の活動である。 1912年韓国併合記念章を受けているが,併合当時官吏であったものには授与されているので,この 時点で親日派であったかどうかは明確ではない。彼は,併合前京城醸造合名会社重役を務めながら 官職に就いていたが,合併後官職を離れて実業界で従事した。したがって1920年6月朝鮮体育会発 起人として参加して,7月に会長に選出される時期には親日的であったかは明確ではないといえる。 しかし1924年4月申羽均とともに同民会評議員として参加したことや,1934年11月朝鮮の独立放棄 と朝鮮人自治を標ぼうして組織された時中会に参加して評議員として活動したことに親日的活動が 明確に示されている。 鄭大鉉 (チョン・テヒョン)は,朝鮮体育会理事を引き受ける前は,学校長を務めていた。理事就任後は,天道教道師,朝鮮民立大学期成準備会に発起人などを勤めた。 1928 年昭和天皇即位記念大礼記念章受章,1934年朝鮮総督府の諮問機構である中枢院の奏任官待遇参議 に任命されて以降,親日的活動が明確に示されている。 金性洙 (キム・ソンス)は,朝鮮体育会役員就任前は中央学校校長・東亜日報社長を歴任しており,この時点で親日的であったかは明確では ない。しかし,1935年11月京畿道庁の主導で「京畿道内の思想善導と思想犯の転向指導保護」を目 的に組織された昭道会の理事に選任されて以降は,明確に親日的活動を行っていた。 なお, 李升雨 (イ・スンウ)は,同事典には朝鮮体育会との関係が明示されていない。同事典にある同名の人物は,朝鮮体育会設立時以前には京城で弁護士として活動しており,1920年代から 30年代にかけて民族運動家の弁護活動も行っていた。しかし,1936年6月朝鮮総督の諮問機構の中 枢院の奏任官待遇参議を引き受けて以降は明確に親日的であったことが窺える。また, 金東轍 (キム・ドンチョル)については,同事典に詳しい経歴は記されていない。